コルカタのマザーハウスでボランティアをする人々が、今も世界中からやって来る。
1985年に初めて来た時、ハンセン病の人や物乞いが沢山いて近づくことすら出来ず、元来た道を引き返してしまった。
知り合いや友達の何人かはボランティアを経験していて、偉いなあと思いつつ自分にはかなわないと開き直っていた。
34年ぶりに来てみた。
辺りの印象はまるで変っている様だった。
そして初めて、マザーハウスの中に入る。
懺悔するようにマザーテレサの棺に触れた瞬間、胸がジンときた。
すんません、自分には・・・
マザーハウス近くのギター工房。
(シタールなどの伝統楽器に比べて、ギターはまだ一寸なあ・・・)
同い年の職人さんがいた。
サダルストリートに戻り、こちら通称「コルカタのさとし」
まだ少年だった昔っから、この界隈で有名な関西弁を喋るNavin Sinha氏。
なんで「さとし」って呼ばれてるのか?自分には思い当たる人物がいる。
あいつが付けたか、あいつに影響されたか・・ナカムラサトシやろ?絶対。
「コルカタのさとし」よろしく
https://www.facebook.com/navin.sinha.16752
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30年、いやおそらくは40年以上も前から世界各国のバックパッカーで賑わっていたコルカタの安宿「パラゴン」も、時代の変化に在った。
パラゴン滞在中、バングラデシュの出稼ぎ客を除いて、バックパッカーの宿泊客はスペイン人のファンと自分だけ。
スタッフに聞くと、5か月後に「パラゴン」を建て直すという。
NEWパラゴンか、、、もう泊まらんかもしれないな。笑
イビサ島での退廃生活?から心機一転、カーリーガートのボランティア施設で自分を見つめ直していたファンに別れを告げる。
ビール飲みながら、バケツで衣類を洗ってるの図。
頼んでいたタクシーに乗車し、インドの街並みを見ながら感傷に耽る。
まるで、ロバート・デ・ニーロの「タクシードライバー」やん。
さらば、サダルストリート。
動画(サダルストリートを出る時、タクシーの運転手が対向車に何か怒ってる図)
1時間半かかって、真新しくもガラガラな空港に着いた。
ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港で最後にひと悶着あり。
これまで往きに三回LCCを乗り継いで那覇、バンコク経由でインドに来た。
荷物検査の際に頼み込んで、何とかX線を通さずに白黒フィルムを持って来れたわけであったが、最後の最後に駄目だという。
「後生だからハンドチェックしてください!」
「だめだ」
「今までここに来るまでのどの空港も、ハンドチェックしてくれたで~」
「ダメなものはだめだ」「例えばアメリカで、こんなことが通用すると思っているのか?」
「そんな事言わんと・・・いやしかし、マジ頼むわ!」
「後へ下がれ、次の者!」
「後回し!」
「おーい、オレのマネーベルトが行ってまうで~」
ボディチェックが済んだ後、先ほどの係官が来た。
「荷物を開けてみろ」
その時、一冊だけ持ってきていた写真集「デイアインデイア」を見せた。
「だからほら、こんな写真を撮ってるんや、白黒フィルムで」「クンブメーラ撮りに来たんや」
「・・・そうか」
写真集のページをめくっていた係官の手が止まった。
「これは・・・ビハールの写真だな?」
「どれ?」
「これは、ブッダガヤで撮ったやつや」
ビハール州のナンバーが付いたぼろいミニバス。
屋根の上まで人が乗り、家路に就く夕暮れの写真だった。
「俺はビハールの出身だ・・・」「写真は趣味か?」
「いや、仕事だ」と嘘をついた。
「チョロ」「行け」
「ええんか?」「マジで?」
「धन्यवाद (ダンニャワード)!」
ここでフィルムがX線で被ってしまったら元も子もない。
写真集「デイアインデイア」が、係官の郷愁を誘い、私を助けた瞬間だった。
・・・というわけで、
3週間ちょいの、インド旅にしては弾丸的旅行だったけど、さすがはインド。
聞きしに勝る大気汚染に喉をやられて辟易したものの、過去にマラリヤや肝炎になった様な病にかかること無く、濃い体験ができ充実した旅となりました。
あと一年で下の子も巣立ち、子育て期間が終わるので、また旅しようか。
普段は、週一の休日とかまったく無しの生活。
オフシーズンにまとまった休日とっても誰にも後ろ指刺されんやろという事で、これから毎冬は・・・
インドに行くか、まだ行ってないとこ巡るか。
2か月間のインド旅通信、お付き合いくださいましてありがとうございました。
白黒フィルムの現像が上がったので、これからはとりあえずスキャンしてどうするか考えます。
いいのがあったら、写真展したいと思います。
その時はよろしく。